こんなEU、あんなEU~日常に見るヨーロッパ | Life in the EU

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フランスのポップ・ミュージック界でこの秋一番の話題作は、11月14日にリリースされたリュリュ・ゲンズブールのデビュー・アルバムだろう。シャンソンやフレンチ・ポップのファンならピンとくる名前のはず。フランスの国民的スターで、20年前に亡くなったセルジュ・ゲンズブールの末子だ。女優シャルロット・ゲンズブールは腹違いの姉である。

リュリュはリュシアンの愛称。父セルジュは57歳のときに生まれた男の子に自身の本名を受け継がせ、溺愛した。セルジュは1988年、2歳のリュリュをパリ公演のステージ上に半ば無理やり引っ張り出し、観衆に披露している。まだよちよち歩きを始めたばかりの幼子には、自分にどんな目が注がれていたのか、自分がどんな定めを負っていたのか、わかるはずもなかった。

この2年後、自分の死期を悟った父は、4歳になった息子にピアノを習わせる。ただし、自ら手ほどきすることはなかった。ピアニストだった父ジョゼフから受けた厳しいレッスンによい思い出がなかったからだ。リュリュが5歳の時、セルジュは死んだ。その日は一日中、ピアノの前から離れず、父がよく弾いてくれたディズニーのテーマソングで、悲嘆にくれる母を慰めたという。

リュシアンは8歳でパリ音楽院に入学し、ピアノを続けた。15歳の時、モデルだった母(芸名バンブー)と亡き父の曲をデュエットしたのが「プロデビュー」だ。その1年後には、端役ながら「銀幕デビュー」も飾っている。しかしそのまま芸能界入りする道は選ばなかった。18歳でパリ音楽院を卒業すると、ロンドンの音楽学校へ留学。音楽の才能をさらに磨き、英語力をつけ、名門バークリー音楽大学に進むためだった。親の七光りに甘えずに実力で勝負しようという堅実な選択と見ることもできるが、父の威光があまりにも強く残るパリを離れたかったというのが本音だったようだ。

希望が叶ってバークリーに進んだことで、音楽を職業とする進路はより動かしがたいものとなった。このころから、「ミュージシャンになる定め」を感じるようになったという。2009年には、父の信奉者であったミュージシャン、マルク・ラヴォワーヌのアルバムに曲を提供したり、姉シャルロットのアルバムに参加したりと、徐々にプロとしての道を歩み始める。

そしてセルジュ・ゲンズブール没後20周年の今年、満を持してと言わんばかりに華々しくアルバム・デビュー。父から受け継いだDNAを前面に押し出すのもためらわず、全16曲を父の作品で構成した。タイトルを『ゲンズブールからリュリュへ』としたあたり、さながら「2代目ゲンズブール」の襲名式といった感がある。

リュリュ・ゲンズブールのアルバム『From Gainsbourg To Lulu』(ユニバーサル)

フランスのポップ・ミュージック界における「2世歌手」というと、ジョニー・アリデイの息子ダビッド・アリデイを思い出すが、気の毒な「名前負け」の例としてあまりにも有名。-M-やアルチュール・Hは、ミュージシャンとして成功したが、いずれもルイ・シェディッド、ジャック・イジュランという偉大な父のファミリー・ネームを表に掲げることを避けた。リュリュが臆さず父の看板を背負ったのは、音楽の基礎をみっちり学び、ミュージシャンとしての力量に自信をつけたからなのだろうか。

しかし音楽誌「レザンロキュプティブル」のインタビューには、「これ以外の選択はなかった」と語っている。あえてここから出発しない限り、父の存在という重すぎる呪縛から逃れられないというのが偽らざるところだったのだろう。父へのオマージュとなったデビュー・アルバムは「通過儀礼」であり、これから「音楽でメシを食っていく」ための布石でしかない。

その力量についてだが、リュリュがデビュー・アルバムで自ら手掛けたアレンジは、原曲よりジャジーでモダンになっており、確かなセンスと才能を感じさせる。その歌声は、父譲りの嗄れ声に姉のウィスパー・ボイスを適度に混ぜたような味わいがある。ただし個性という点で、強烈な異彩を放った父とは比べようもない。本人もそのあたりは十二分に自覚しているはずである。作曲家としてのこれからに注目するべきだろう。

セルジュ・ゲンズブールといえば、ブリジット・バルドーやジェーン・バーキンなど華麗な女性遍歴でも知られる。リュリュはアルバムに収められた『ボニー・アンド・クライド』(父がバルドーとデュエットした60年代のヒット曲)で、米女優スカーレット・ヨハンソンを起用しているが、今のところ、この当代きってのセックス・シンボルとの浮いた噂は聞かない。この点でも、父のDNAに過剰な期待(?)を抱くのは見当違いということらしい。(ル・ジュスティシエ)

【参考資料】
リュリュ・ゲンズブール インタビュー(lesinrocks.com)
http://www.lesinrocks.com/musique/musique-article/t/68511/date/2011-08-02/article/from-lulu-to-gainsbourg-entretien-dun-heritier-doue/

【リンク】
リュリュ・ゲンズブール公式ウェブサイト
http://lulugainsbourg.artiste.universalmusic.fr/

 前回、前々回とウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を取り上げましたが、今回はそこから派生させたこぼれ話をお届けします。

 私がサイードを知ったのは、学生時代の授業が名著『オリエンタリズム』に触れたことがきっかけだったと思います。結局『オリエンタリズム』には腰を据えてかかれませんでしたが、その後も関心はつかず離れずといった感じで、朝日新聞連載の大江健三郎さんとの往復書簡など、なんとか追い続けていたことを思い出します。過去形ですが。

 他方、私がバレンボイムに対する関心を得たのは全く別経由で、ジャクリーヌ・デュ・プレというイギリス人チェリストを通じてでした。

 1945年生まれのデュ・プレは、幼少のころからチェロに親しみ、1961年に弱冠16歳にしてデビューを果たしました。その後、70年代前半にかけてエルガーやショパン、ブラームスのチェロ協奏曲などを数多く演奏し、名チェリストとしての地位を確立させました。当時の録音は現在も名盤と位置付けられています。

 デュ・プレといえば、その情熱的な演奏スタイルで有名ですが、当時の映像や写真からは、短いワンピースにローヒールで快活に歩く少女のようなデュ・プレ、長い金髪をかき上げながら厳しい面持ちでチェロに向かうデュ・プレ、演奏の合間に笑顔を除かせるデュ・プレなど、多くの異なる側面を垣間見ることができます。とても一つのカテゴリーでは括り切れない人物だったようですが、チェロという大きな楽器を体の正面に抱え、激しくも決して軸のぶれない彼女の演奏、その技術の卓越さと情熱にはとにかく圧倒されます。必見です。こんな風に弾けたらどんなに気持ちいいだろうか、と心底思わされます。

 さて、1966年、21歳になったデュ・プレは、演奏活動を通じて知り合った24歳のバレンボイムと結婚します。いわゆる、電撃結婚だったようです。この前後、バレンボイムは、時に指揮者として、また時にピアニストとしてデュ・プレと共演し、数々の名演を残しています。私が持っているデュ・プレのCDにも、バレンボイムとの共演が、演奏中の両者の写真と共におさめられています。

 しかしその後、デュ・プレには大きな転機が訪れます。その数年前から指先を含む身体の先端部分の感覚に異常を感じ始めていたとされますが、1973年には満足のいく演奏が行えなくなり、多発性硬化症と診断されるのです。多発性硬化症は原因不明の難病で、中枢神経系の脱髄疾患の一つです。チェリストとしての生命を絶たれたデュ・プレは、14年間の闘病生活の末、1987年に42歳の若さで亡くなります。これが夭折の天才チェリストと呼ばれる所以です。享年の若さもさることながら、彼女の演奏家としての人生が1961年からの10年程度と非常に短かったことは、残念としか言いようがありません。

 デュ・プレの死後、彼女が使っていた名器ダヴィドフ・ストラディヴァリウスは、ヨー・ヨー・マに寄贈されました。なお、1999年に、バレンボイムとサイードがウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団が初公演を行った際は、ヨー・ヨー・マもワイマールに駆け付けたそうです。他方、バレンボイムは、デュ・プレの死の翌年、1988年にはピアニストの女性と再婚しています。デュ・プレの生前からその方とは同棲生活に入っていたようで(その方も再婚)、いやはや、ですね。

 最後の蛇足ですが、私はそんなデュ・プレと誕生日が一緒です。
                                               (オラ!カティ)

【記事に関するリンク先】
・ジャクリーヌ・デュ・プレ オフィシャルサイト
http://www.jacquelinedupre.net/

元フィンランド大統領のマルッティ・アハティサーリ(1937-)さんの講演会(笹川平和財団主催「和平調停とは何か―アハティサーリ氏の経験から学ぶ」)を聴いた。ナミビアやコソボ、インドネシア・アチェなどの紛争地帯における和平合意に国連特使としてどう関わってきたのかの話はなかなか説得力があった。こうした平和構築のプロセスにおいて、今後、政府間レベルでの話し合いに加え、民間レベルでの仲介がさらに重要になるとの指摘にはなるほどと思った。2008年、こうした功績が評価されてノーベル平和賞を受賞したのだが、その後、一日30件の講演依頼が世界中から入ってくるようになったそうだ。

アハティサーリさんのお話を伺っているうちに、なぜか、「自利利他」という仏教用語が浮かんできた。自利利他とは悟りを得るとともに、他人にも仏法の利益を得させること。菩薩の心構えとして有名な言葉だ。
「自利自他」と言えば、自分の利益を得るだけのこと。おそらくアハティサーリさんは、自分の利益のために紛争の仲介を行っているわけではないだろう。それは壇上で話す彼の仕草や態度から伝わってくる。74歳になった今でも、今日は何か愉しいことがありそうだとワクワクしながら目ざめる、とも語っていた。

ああ、なんて素晴らしい人生なんだろう! おそらく自分の利益ばかり考えていたら、そんな気持には絶対になれないはずだ。人のため、世の中のために行うことが、自分のためにもなっているのだろう。これこそ、自利利他だ。教育学を専攻したというだけのことある。現在はロシア領だが、かつてはスウェーデン領やフィンランド領で陣取り合戦の舞台となったヴィボルグで生まれた元大統領は、一時期、難民になって暮らしたこともあるという。そうした経験が「自利利他」の精神を育んだに違いない。
彼のような菩薩が混迷を深める21世紀の国際社会には求められている。(ロニ蔵)

最近、欧州の女性リーダーが新聞やテレビによく登場しているのを目にします。9月、デンマークで女性初のシュミット首相が誕生。10月に入るとギリシア危機で欧州金融安定基金(EFSF)拡充案の批准をめぐって、スロバキア初の女性首相ラディツォバー氏が目立っていたし、ドイツのメルケル首相も欧州の金融危機のカギを握っています。

女性リーダーが取り上げられるのは、リーダーになるケースが男性よりもまれだからという印象が以前は濃かったのですが、最近は女性として自信を持って働く姿が印象的に映ります。フランスのクリスティーヌ・ラガルドIMF専務理事が7月就任直後に「私の姿を見て、若い女性たちが、『どんな人生の選択もできる』と勇気を持ってくれたらうれしい」とコメントしていたのを覚えています。これからを生きる若い世代にとって今の女性リーダーの活躍ぶりはどのような姿として心に残るのかと頭をよぎりました。女性リーダーが増えれば世の中が変わっていく気がします。(くるみ)

 アジアの2大新興国であるインドと中国。経済面だけでなく軍事面でもライバルであり、インド側は、中国側が両国国境地帯の軍備を充実させていることや、インド洋沿岸の諸国にまで海軍の拠点をつくり始めたことに神経を尖らせている。

 インド空軍はこのほど、EU 4カ国(英、独、伊、西)のユーロファイター社かフランス・ダッソー社から計126機もの最新鋭戦闘機を買うことを決め、近く入札が行われる。中国空軍への対抗が目的だが、インドの著名軍事アナリストがこのほど「欧州製戦闘機を買っても中国空軍の優勢を覆せない」という内容の論文を専門誌に寄せ、興奮するインド軍首脳に冷や水を浴びせた。

 アナリストによると、ユーロファイター社のタイフーンとダッソー社のラファールは、「第4.5世代」の戦闘機。今年初飛行に成功した中国の「殲―20」(J-20)型戦闘機は「第5世代」に属し、レーダー類から探知されないステルス性を備えるため、欧州機は太刀打ち出来ないのだ。しかも全機の配備が終わるのは早くても2050年で、あまりにも遅すぎる。

 欧州の2社は、タイフーンやラファールがなお世界最先端の戦闘機で、「殲―20」に対抗できると言い張っているが、第4世代や第4.5世代の戦闘機は、いかに改良してもステルス性を備えた第5世代の敵ではない。ロシアがスホーイ社のSu-33、Su-35を懸命に売り込む一方、同社のステルス戦闘機T-50の開発を急ぐのはこのためだ。インド軍がタイフーンやラファールで中国軍を圧倒しようという考えは、ザルで水をくむのと同様、無駄な結果に終わる。

 別のアナリストは「中国空軍の近代化の成功は、自主独立の開発理念の結果だ。自前の近代的な軍事工業システムを完備しようという理念が、優れた国産兵器を生み出し、空軍全体の進歩ももたらしている」と指摘。これに対しインドの軍事力の整備は「条件反射式」で、中国にますます遅れる原因となっているとの見方が出ている。(しおせんべい)

 みなさんは、マルチーズという犬をご存じだろうか?絹糸状の純白で、光沢のある被毛が風にたなびくあの犬である。ドッグショー(犬の姿形を審査する「品評会」)では、無類の強さを誇る犬で、日本を含め屋内犬としては定番の犬種である。
 一方で、みなさんはフェニキア人という名を聞いたことがあるだろう。紀元前、地中海全域を舞台に活躍し、その交易活動によって、古代オリエントで生まれた素晴らしい文明を地中海全域に伝えた人々である。いわゆるアルファベットの起源がフェニキア文字といわれ、今日の文明に多大な影響を残していった。ちなみにアルファベットのAは牛の頭の形を逆さまにしたものといわれている。
 一見つながりの無さそうなこの両者の関係、実は3,000年前に出会わなければ、現代社会でこんなにも身近な存在にはなれなかったかもしれない。

 マルチーズという名前は地中海のマルタ島からとったものとされている。もっとも、現在マルタ島でマルチーズを見かける事はない。そのマルタ島は、紀元前1,500年頃にはフェニキア人の貿易の中継地として、地中海諸国の中で最も殷賑を極めた場所だった。確かな裏付けはないが、もっとも有力な説として、マルチーズはアジア由来の小型犬をフェニキア商人がマルタ島に持ち込み、改良固定させたというものがある。初期のマルチーズは船員のペットとして船の中で飼育されることが多かったため、容易に貿易相手国に広まっていったそうだ。
 そして、これを皮切りに、紀元前500年頃のギリシャでは陶製の壷や皿に白色長毛のマルチーズの姿が描かれ、ついには墓まで建てたられるようになった。ローマ人はマルチーズのために詩や肖像を残している。エジプトでは歴代の王家が、金の器で食事をさせたといわれ、15世紀のフランスでは大流行犬となり破格の価格で取り引きされていた。マルタ島がイギリス領となった1813年以降は、ビクトリア女王をはじめとする王室貴族の寵愛を一身に受けるようになり、世界的に知られるようになった。
 人類が愛玩犬のために行なった事始めは、マルチーズのためだったとさえいわれている。

 今日、マルチーズがドッグショーに出陳された場合、かなり高い確率でB.I.S.(ベスト・イン・ショー、大会最優秀賞に相当)または、それに準ずる順位を獲得することが多い。世界中の人々との付き合いが長く、それぞれの好みを一身に受け入れ改良されてきたので、理想にもっとも近い犬種なのかもしれない。
 マルチーズを世界中にひろめたフェニキア人もまた、文字という形で欧米だけに留まらず、全世界中で生き続けている。政治的・経済的な要因はあるものの、ここまでたくさんの人々の生活に入ってきたのは、その都度それぞれの地の生活や習慣に合わせてきたからだろう。
  ―――この世の全てのモノは変化を繰り返し、その時の理想に近づこうとする―――マルチーズを見ていると、そんな思いを深く抱かせる。 (ばんどうたろう)

【リンク先】
●社団法人ジャパンケンネルクラブ マルチーズの紹介
http://www.jkc.or.jp/modules/worlddogs/entry.php?entryID=161&categoryID=9

●ウィキペディア フェニキアの紹介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2%E4%BA%BA

●マルタ共和国政府ホームページ
http://www.gov.mt/index.asp?l=2

自由で活発な発言を歓迎します。

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