こんなEU、あんなEU~日常に見るヨーロッパ | Life in the EU

Archive for the ‘United Kingdom’ Category

 前回、前々回とウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を取り上げましたが、今回はそこから派生させたこぼれ話をお届けします。

 私がサイードを知ったのは、学生時代の授業が名著『オリエンタリズム』に触れたことがきっかけだったと思います。結局『オリエンタリズム』には腰を据えてかかれませんでしたが、その後も関心はつかず離れずといった感じで、朝日新聞連載の大江健三郎さんとの往復書簡など、なんとか追い続けていたことを思い出します。過去形ですが。

 他方、私がバレンボイムに対する関心を得たのは全く別経由で、ジャクリーヌ・デュ・プレというイギリス人チェリストを通じてでした。

 1945年生まれのデュ・プレは、幼少のころからチェロに親しみ、1961年に弱冠16歳にしてデビューを果たしました。その後、70年代前半にかけてエルガーやショパン、ブラームスのチェロ協奏曲などを数多く演奏し、名チェリストとしての地位を確立させました。当時の録音は現在も名盤と位置付けられています。

 デュ・プレといえば、その情熱的な演奏スタイルで有名ですが、当時の映像や写真からは、短いワンピースにローヒールで快活に歩く少女のようなデュ・プレ、長い金髪をかき上げながら厳しい面持ちでチェロに向かうデュ・プレ、演奏の合間に笑顔を除かせるデュ・プレなど、多くの異なる側面を垣間見ることができます。とても一つのカテゴリーでは括り切れない人物だったようですが、チェロという大きな楽器を体の正面に抱え、激しくも決して軸のぶれない彼女の演奏、その技術の卓越さと情熱にはとにかく圧倒されます。必見です。こんな風に弾けたらどんなに気持ちいいだろうか、と心底思わされます。

 さて、1966年、21歳になったデュ・プレは、演奏活動を通じて知り合った24歳のバレンボイムと結婚します。いわゆる、電撃結婚だったようです。この前後、バレンボイムは、時に指揮者として、また時にピアニストとしてデュ・プレと共演し、数々の名演を残しています。私が持っているデュ・プレのCDにも、バレンボイムとの共演が、演奏中の両者の写真と共におさめられています。

 しかしその後、デュ・プレには大きな転機が訪れます。その数年前から指先を含む身体の先端部分の感覚に異常を感じ始めていたとされますが、1973年には満足のいく演奏が行えなくなり、多発性硬化症と診断されるのです。多発性硬化症は原因不明の難病で、中枢神経系の脱髄疾患の一つです。チェリストとしての生命を絶たれたデュ・プレは、14年間の闘病生活の末、1987年に42歳の若さで亡くなります。これが夭折の天才チェリストと呼ばれる所以です。享年の若さもさることながら、彼女の演奏家としての人生が1961年からの10年程度と非常に短かったことは、残念としか言いようがありません。

 デュ・プレの死後、彼女が使っていた名器ダヴィドフ・ストラディヴァリウスは、ヨー・ヨー・マに寄贈されました。なお、1999年に、バレンボイムとサイードがウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団が初公演を行った際は、ヨー・ヨー・マもワイマールに駆け付けたそうです。他方、バレンボイムは、デュ・プレの死の翌年、1988年にはピアニストの女性と再婚しています。デュ・プレの生前からその方とは同棲生活に入っていたようで(その方も再婚)、いやはや、ですね。

 最後の蛇足ですが、私はそんなデュ・プレと誕生日が一緒です。
                                               (オラ!カティ)

【記事に関するリンク先】
・ジャクリーヌ・デュ・プレ オフィシャルサイト
http://www.jacquelinedupre.net/

バワがオフィスとして使っていた場所は、現在カフェに。コロンボのギャラリーカフェ(内部)

スリランカの建築家ジェフリー・バワ(1919-2003)は、20世紀半ばから後半にかけて南アジアを中心に多くのリゾートホテルの設計を手掛け、「トロピカル・モダニズム」の旗手とも言われる。作品のいくつかを訪れ、現地の植物やフォークロアなタッチをうまく取り入れ、空間を大きく使ったモダンな建物は、初めて訪れた人でも快適に過ごせる印象を受けた。 

欧州の血を引くバワは、英国で法律を勉強し弁護士となるが、欧米各地を旅した後、英国に戻って建築の勉強を始め、30代後半で建築の学位を修める。デンマーク人建築家(ウルリーク・プレスナー)をパートナーとして建築事務所で仕事を始め、生涯に手掛けた作品の数は多い。ホテルのほかに個人邸、学校、そして国会議事堂に至るまで。 

ブルーウォーターホテル

当時の潮流、モダニズムを欧州で学び、スリランカの伝統も取り入れた設計は、「バワ・スタイル」としてその後のアジア建築に影響を与えていく。バワに影響を受けた次世代の建築家たちも英国やデンマークに留学し、母国に戻って教鞭をとっているそうだ。

 

ブルーウォーターホテルから海を臨む

バワを1番身近に感じることができるのは、ルヌガンガと呼ばれる彼の自邸だろう。バワは、ゴム畑だった広大な土地を買い取り、50年かけて理想郷を実現すべく様々な実験を試みた。彼が強くこだわったものの一つは景観だ。目の前からその先まで重なる景色。彼が自邸で最も気に入っていた景色も、シナモン・ヒルと呼ばれる丘から見えるそうした眺望。彼の遺灰は壺に納められ、この丘に安置されている。    (みかん、写真も)

ルヌガンガ。手前は日時計

                       

ルヌガンガ。バワの眠るシナモン・ヒル

                                                                                     

ルヌガンガ。壁はなく庭とその先の湖が見晴らせる

ベントータ・ビーチ・ホテル

  

 

 

 

 

 

 

(参考資料)
Blue Water Hotel
Bentota Beach Hotel
a+u No.489 (2011年6月) 特集:ジェフリー・バワ ― スリランカのエッセンス

6月14日から8月21日にかけて、三菱一号館美術館(東京・丸の内)で「もてなす悦び展」が開催された。この展示会は、19世紀末のロンドン、パリ、ニューヨークで人気を博した日本の陶器、漆器などいわゆる美術工芸品を、時代背景と共に紹介するもので、その当時の欧米における「ジャポニスム」旋風を肌で感じることができた。

大学のゼミで「18世紀末イギリスの産業革命」を専攻したこともあり、この時代については、以前から興味があった。卒業論文も、イギリスにおける紅茶文化の普及とジョサイア・ウェッジウッド(イギリス最大の陶器メーカー「ウェッジウッド社」の創設者)の偉業について取り上げたので、基礎知識は十分持ち合わせて展覧会に挑んだつもりだった。しかし、この頃の欧米では、現代の日本の漫画・アニメにも通ずる「日本ブーム」が芸術面で既に開花していたという事実は、新たな発見であり、驚きでもあった。

そもそも、ヨーロッパに紅茶文化が普及し始めたのは、オランダ東インド会社が17世紀初頭に設立され、アジア諸国へ進出したことが大きく影響しているといわれている。肥前、伊万里といった日本の陶器は、それぞれ17世紀後半、18世紀初頭にオランダへ輸出されている。その後、19世紀初頭には、インドで新種の茶樹・アッサム種が発見され、インド・スリランカでの紅茶の栽培が開始。そうしてヨーロッパの紅茶消費量は一気に加速する。ほどなく、上流階級の嗜好品だった紅茶は、労働者階級といった中産階級層にも広まり、産業革命時代には、紅茶は黄金期を迎えるのである。

というのが、少ないながらの私の基礎知識であるが、注目すべきは、中産階級層に紅茶文化が広まったという事実である。「もてなす悦び展」では、実にさまざまな茶器を展示していたが、その頃の大衆文化において、茶器の芸術をたしなむ余裕というものが感じられる。産業革命下において、一般庶民にも裕福とはいえないが、一定の生活水準が保たれるようになり、「美しいものを愛でる」という感覚が生まれてきたのである。

日本の茶器の絵柄に、欧米の人々は魅了された。ティファニー・スタジオが、朝顔柄のガラス工芸品を発表。瞬く間に欧米において「朝顔ブーム」が巻き起こる。その後もファン・パターンといわれる扇の絵柄を真似たり、蜻蛉、蝶、桜、竹、紅葉、ひょうたんといった日本独特の絵柄を、ロイヤル・ウースター社、ウェッジウッド社、ミントン社などが競って自社製品に採用した。

「日本ブーム」に火をつけたのは、19世紀中頃、ロンドン、パリなどで開かれた万国博覧会の影響が大きいといわれる。いわば「日本を欧米の大衆にアピール」する絶好の機会が与えられたのである。

このようにして、日本と欧米の芸術的価値というものがひとつとなった瞬間を、陶器を通して感じることができたことも大きな収穫だった。そしてまたひとつ、大好きな茶器と紅茶文化の知識が膨らんだような気がする。(さくら)

[URL]
三菱一号館美術館「もてなす悦び展」(会期:6月14日~8月21日)
http://mimt.jp/omotenashi/

ロンドンで6日夜に発生し、バーミンガムやリバプール、マンチェスターにまで拡大した若者の暴動。フランス人なら誰しも、全国の都市郊外に暴力が吹き荒れた2005年11月を思い出さずにはいられない。

このときも、発端は警官に追われた移民家庭出身の若者が死亡する事件だった。暴動はパリ郊外ではじまり、やがて地方都市の郊外へと飛び火。おもに路上に駐車した自動車が放火のターゲットにされ、9000台以上が燃やされた。沈静化するまでにほぼ3週間を要したが、警察が「平常通り」と宣言した夜に放火された車の数は98台だった。つまり、一晩に百台くらいの自動車に火がつけられるのは「日常」だったのだ。 

 当時は、海外のメディアがこぞってフランスの都市郊外の「ゲットー化」を指摘した。お隣のイギリスも同様で、そのときはフランスと比較して、自国の移民統合政策が成功していることを暗に誇るような書き方もあった。

古くからイギリスに対抗心を抱くフランスだけに、今回はメディアもここぞとばかりに反撃するのだろうかと思い、ル・モンド紙の社説を見てみた。

同紙は、暴力の急激な連鎖反応という「見かけは似ている」が、背景は「まったく同じとは言えない」と指摘する。フランスでは郊外のもっとも荒廃が進んだ地区で若者が暴発したのに対し、今回のイギリスの場合は、多様な民族、社会階層の住民が混在する地区だった。貧困層と富裕層が共生≪しているかのように見えた≫地区で、格差という現実が「残酷なまでに白日の下にさらされた」のが今回の事件だったというわけだ。

もちろん2つの暴動には、共通の根がある。どちらも「社会の落ちこぼれ」の反逆であり、その≪社会≫とは、もはや彼らに居場所も未来も与えることができなくなっている。家庭、学校、社会から見放された彼らに、「失うものなど何もない」のだ。

そしてル・モンドは、2つの国の政府がとった対応も同様に場当たり的、と嘆く。政治家たちは「法と秩序を守る」ことばかりを優先した。少なくともそのようなレトリックを用いた。「これは単に若者の非行問題のエスカレートである」と片付け、治安の強化に邁進するならば、問題の根を取り除いたことにはならない。暴動から6年近くを経て、いまなお状況に大きな改善が見られないフランスならではの指摘と言えるだろう。
(ル・ジュスティシエ)

〔CC : A.J.〕 2005年11月2日深夜から3日未明にかけて放火された自動車(パリ郊外セーヴル市)

 

【参考記事】
Le Monde, « Tottenham-Clichy, les révoltés du “no future” »

英国王立芸術院(Royal・Academy・of・Art)は1日、中国当局に拘束されている現代芸術家で、2008年の北京五輪のメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関与したことで知られる艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏に、「名誉会員」の称号を贈ると発表した。

同院の名誉会員は、通常英国以外に居住している芸術家が対象で、毎年最多で2人を選出する。

艾氏は、人権活動家としても知られ、2008年5月の四川大地震で小学校の校舎が倒壊し多数の児童が犠牲になった問題で、当局の責任を追及。また、58人が犠牲になった2011年11月の上海のマンション火災事件でも、出火原因の調査結果など情報を公開しない政府の姿勢を批判していた。

艾氏は、2011年4月初め中国当局に突然身柄を拘束され、2カ月以上釈放されていない。当局は5月、同氏の「巨額の脱税があった」と発表したが、金額や拘束場所など詳しいことは明らかにせず、欧米のメディアから批判を受けた。

同院は「現代の中国と世界において最も重要な文化人の1人」と評したが、拘束については言及しなかった。艾氏の姉は、同氏の芸術活動が評価を受けたことを喜んでいるが、「弟がまったく(このことを)知らないのは残念だ」と話している。


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