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ベルリンの壁建設50周年~「壁を建設するつもりはない!」発言から半世紀 50-year Anniversary of Berlin Wall: Half Century After Famous Comment by East German Leader
Posted 2011/06/16
on:- In: Anniversary | Germany | Public
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ドイツの首都ベルリン市では6月14日、ベルリンの壁建設50周年を記念して写真パネルの除幕式が行われた。パネルは、ベルリンの壁が築かれる当時の様子などを撮った写真を引き延ばしたもので、6月15日以降にはさらにベルリン市内数か所に設置される(写真の種類は全24点)。
1961年8月13日朝、東独(当時)側が東西ベルリンを分断する壁の建設作業を開始した。その日は道路が通行止めされ、人が越えられないほどの高さの有刺鉄線が壁の設置場所に沿って張りめぐらされた。数日の内には、石が積みあげられた壁が出現した(コンクリートの壁が完成したのは1970年代半ば)。かくして約28年にわたり、高さ数メートル、総延長150キロメートル超の壁がベルリン市を東西に分断した。
壁の建設自体は8月に始まったが、実は写真パネル展示が開始された6月15日もベルリンの壁に関連した重要な日である。1961年6月15日、東独の最高指導者のヴァルター・ウルブリヒト・ドイツ社会主義統一党(SED)第一書記は、海外プレスを含むジャーナリスト数百名を集めて記者会見を行った。当時、東ベルリンから西ベルリンへ亡命する者が跡を絶たず、ベルリン情勢は緊迫していた。ウルブリヒトは、ある記者の質問に答え、「誰も壁を建設するつもりはない!(Niemand hat die Absicht, eine Mauer zu errichten)」という有名な言葉を発した。この時、初めて壁(Mauer)という言葉が東独政府関係者の口から飛び出したと言われている。その後、記者会見から2か月も経たない内にベルリンの壁が電撃的に建設され、西側世界に衝撃が走ったのだった。
8月13日にはベルリンの壁を越えようとして銃撃され亡くなった人たちなど「ドイツ分断」の犠牲者を追悼する式典が行われる。6月15 日(ウルブリヒト発言)から8月13日(壁の建設の開始)までの、50年前とちょうど重なるこの2か月間には、ベルリン文化プロジェクト社(Kulturprojekte Berlin GmBH)や「ベルリンの壁」財団(Stiftung Berliner Mauer)のイニシアティブで、ベルリンの壁をテーマとした各種集会や芸術作品展示などのイベントがブランデンブルク門などベルリン各所で開かれる。 (じょぎんぐまん)
★「ベルリンの壁」に関連する当ブログの前記事(2009年7月、パクチーさん)
https://eueublog.wordpress.com/2009/07/31/berlin-wall/
ベルリンの壁(建設)50周年
http://www.50jahremauerbau.de/
ベルリン文化プロジェクト社(Kulturprojekte Berlin GmBH)
http://www.kulturprojekte-berlin.de/projekte/50-jahrestag-des-mauerbaus/50-jahrestag-des-mauerbaus/
「ベルリンの壁」財団(Stiftung Berliner Mauer)
http://www.berliner-mauer-gedenkstaette.de/de/
40年以上東西を分断してきた壁が崩壊して20年。ベルリンという都市は、市街地を分断されるという特殊な事情を経て発展してきた。日独の建築家と都市計画担当者が集まったシンポジウムでは、ベルリンの変遷と21世紀のあり方について様々な意見が交換された。
第2次世界大戦でベルリンは空襲を受け、産業、知識層、西側のユダヤ人や東側のキリスト教徒、彼らの文化やアイデンティティを感じさせるものを全て失った。戦後復興でも、西側は個人主義を背景に、個別住宅のアメリカ型を目指したのに対し、東側は共産党体制下での集団主義をベースに、集合住宅が建てられるソ連式であった。東ベルリンのモデルネと呼ばれる近代建築は、未来の実験台とも言え、注目されたが、しょせん一時的なものであった。
冷戦下の東西ベルリンは1950年代から開発を競い合う。だが、70年代になると、戦後の30年間の開発が果たして正しかったのかなどと批判的に歴史を見直す動きが始まり、1980年代後半に都市開発計画の国際コンペが開かれることになった。
このコンペで採用されたのは、斬新なメトロポリス(未来都市)計画ではなく、欧州都市の伝統を取り戻す保守回帰的なヒルマーとザトラーの案であった。部分的には日本の磯崎新氏を始め、世界的に有名な建築家も参加した。磯崎氏の案が取り入れられたのは、欧州都市についてのイメージを現代風に甦らせたからである。
磯崎氏の説明では、19世紀までに発展した欧州都市は、中庭があること、建物の高さが抑えられていること、ファサード(正面の外観)が街の景観(顔)を作っていること、が特徴として挙げられる。20世紀の都市として中庭の中に公共の施設をつくるなど、古い町の構造に新しい要素を取り入れて近代的な風格を醸し出した、新しい形で伝統を復活させていくことを「ネオコン」と彼は呼んでいる。
20年にわたってベルリンの復興開発に携わってきたハンス・シュティマン氏は、「この都市は歴史と時代の進展がうまく融合した形となっている」と述べ、グローバル化された今日、ベルリンのアイデンティティを鮮明にし、世界各地から訪れたいと思わせられる独自の魅力を作り出していきたい、と締めくくった。(みかん)
ベルリン日独センター主催シンポジウム
「壁崩壊後のベルリン ――<ヨーロッパの都市>としての伝統を守る首都への回帰」
2009年10月27日(火) ドイツ文化会館ホール
http://www.jdzb.de/images/stories/documents/j1284_program_jap.pdf
ベルリンの代表的な建築についてまとめてあるサイトを発見↓(神戸大学平山研究室)
http://www.edu.kobe-u.ac.jp/hudev-hiraken/contents/album/modern/Germany.htm
ドイツ歴史博物館で2009年の記念展覧会 Exhibitions at German Museum Highlight Historic Turning Points
Posted 2009/08/28
on:ベルリンの壁崩壊から20年、またポーランド侵攻から70年を迎える今年、ベルリンにあるドイツ歴史博物館では、これらの出来事を振り返る2つの展覧会が開催されている。残念ながら実際に見る機会はなかったが、内容を簡単に紹介したい。
展覧会「ドイツ人とポーランド人1.9.39――絶望と希望」では、1939年9月1日のポーランド侵攻前後から冷戦終結までのドイツ・ポーランド関係を、写真、ポスター、品物などを展示してたどっている。ドイツが行った残虐行為についても史実が淡々と語られ、当時のポーランド、ドイツ双方の一般的な国民感情がどのようなものであったかについても紹介されている。
同じく写真展「1989:時代の曲がり角」でも、1989年から1990年にかけて写真が捉えた歴史の一部を紹介している。興味深いのは、第4部で西側の写真家が、それまであまり知られることのなかった旧東ドイツに関心を持ったことで、自然環境の破壊が芸術作品を通して明らかになっていったことだ。
初めてベルリンを訪れたのは1999年だ。確か新国立美術館(Neue Nationalgalerie)で、現代ドイツ人アーティストによる展覧会が行われていた。歴史の負の遺産をテーマにした作品に、戦争が過去のものではなく、今日の人たちも重責として背負っていることに衝撃を受けたのを思い出した。同じように今年2009年も、彼らは変わることのない過去について考え続けている。
この夏ベルリンで、友人のお母さんから、20年が経ってもドイツは統一からまだ遠いところにいる、との話を聞いた。彼女は、100年の年月が必要でしょう、と話していた。(みかん)
展覧会「ドイツ人とポーランド人1.9.39――絶望と希望」(英語)
2009年5月28日~9月6日
http://www.dhm.de/ausstellungen/deutsche-polen/en/index.html
写真展「1989:時代の曲がり角」(英語)
2009年5月30日~8月30日
http://www.dhm.de/ausstellungen/1989/en/index.html